『キャラーテ・ナーン』ー表紙の力ー

あらすじ

キャラーテ・ナーンの人里離れた村に、老いた母と若い息子が住んでいた。ふたりは、2頭の牛とともに、畑で朝から晩まで働いたけれども、とても貧乏だった。母は日ごとに弱くなり、ある日とうとう倒れてしまう。

病床の母は、牛を1頭殺して、その肉を食べさせてくれ、と言った。牛を殺してしまうと畑仕事に支障が出ることは明らかだったが、母を愛する息子に他の道はない。1頭を牛舎から連れ出し、その大きな首と目を両手で撫でた後、近所の人に殺してもらった。息子は、泣いた。  

牛の肉を食べた母は元気になり、再び畑に戻る。しかし牛1頭ではやはり全てをまかなえない。新しい牛を手に入れることもできず、考えた末に母は、自分を牛の代わりにくびきにつながせる。  

そうやって仕事をしているところに知事が通 りかかった。知事は老女がくびきを引いて牛と共に畑を耕しているのを見ると、「母親の代わりに働かせることができるのなら。」と言って、歩くことさえままならない怠惰な牛を1頭息子に与えた。太った牛は最初動きもしなかったが、働いた分だけ食べられるということをやがて理解する。息子は牛を働かせることに成功した。  

その様子を見た知事は、今度は、これまた食べて寝ることしか知らない自分の娘を嫁に与える、と申し出た。息子は娘を引き受けた。  

娘は何をすることもなく、ただただご馳走をくれと叫び続ける。母と息子は構わず、ふたりだけでナーンとチーズの食事をとった。働けば食べられる、とふたりは説明するが、娘は、「なでてあげます」「手に口づけさせてあげます」など見当違いなことを言うばかり。仕事というものを知らなかった。しかしとうとう娘は箒を手にする。少しだけ床を掃いた。母はひとくち分のナーンを与えた。  

その後、娘は誰よりも働き、誰よりも食べるようになる。かつてウシがそうなったように、体から無駄 な脂肪は落ち、明るく、美しい娘になった。  

ある日、様子を見にやってきた知事に娘は言った:「もし、おなかいっぱい食べたかったら、牛舎をそうじしなきゃだめよ。」  知事はむっとしたが、母と息子と娘は、一緒に微笑んだ。

雑感

印象的な表紙だと思う。画面いっぱいに描かれたウシの顔。緑色の目は少しけだるそうに、でもまっすぐこちらを見つめている。

実はこの絵、知事が与えた歩くことさえままならない怠惰なウシを描いたものである。実際の物語中では、どちらかと言うと目立たない存在だ。しかし、この本の表紙がウシの絵であって、読者の目に一番最初に触れられるようになっていることに、わたしは、表紙を選んだデザイナーの、そしてそれ以前に、ウシの絵を最も魅力的に描いた画家ファルジヤーニ−の静かなる意図を感じるのである。

この表紙のウシは、文章をゴラームホセイン・サーエディが書いているという点において、実は特別 な意味を持っている。

この物語の作者、ゴラームホセイン・サーエディ(1935-1985)は、短編小説家、劇作家、脚本家として活躍した人物である。数多くの作品を残しているが、その中に、まさに「牛」という作品がある。これは脚本としても書かれ、映画にもなった。簡単にストーリーを述べると、一頭のウシを自分の分身のように愛し、世話をしていた男が、自分の留守中にそのウシが逃げ出した、ということを聞かされ(実際には事故で死に、それを隠そうとして村民が嘘をついているのだが)、悲しみのあまり、ついには自分がウシになり、悲劇的な結末を迎える、というものである。モノクロの世界の中で男がウシのような声を出し、わらを食べながら村民に迫る場面 は衝撃的であり、また彼を取り巻く周囲の人間の表情の捉え方が見事で、イランの社会派映画の中でもかなりの秀作である。つまり、サーエディといえば、映画「牛」を思い出すほど強い印象を残す作品なのである。

なので、この『キャラーテ・ナーン』の表紙のウシを見たイランの読者の多くは、作者がサーエディだと知れば、まず、あの映画「牛」を思い出すだろう。小振りのウシの顔を優しく撫でる仕草や、まるで恋人同士のように連れ立って荒野を歩く風景、村民の手によって穴に埋められる時の死んだウシの表情などなどなど。映画のシーンそのものは思い出さなくとも、画面 を支配する重い空気を無意識に感じつつ、この絵本を読み始めるのである。

そうして開く、この『キャラーテ・ナーン』。まずは「牛」とは全く違う内容であることはすぐに気付く。働くことと食べることの関係性を、老いた母と若い息子の貧しい生活を軸に描き出す物語である。物語は淡々と進行し、特に主人公の息子と母はどんな時でも冷静で理性的な人物として描かれる。息子には、最愛の母が倒れた時も、家に連れて帰った後、すぐに畑に戻る冷静さがあり、また母をくびきにつないでウシとともに働かせるというショッキングな行為も、当然のように実行される。「生き残る」ために下さねばならない判断に迷うことはない二人なのである。

しかしそんな中、この物語の全編を通してただ一カ所だけ、息子の感情の揺れを感じる場面 がある。それは、母のためにウシを1頭殺す場面である。この場面、息子がウシを殺すことに決めて、実際にウシが屠殺されるまでの一つ一つの動作が1ページを使って細かく述べられている。少し長いが、引用してみよう。

「しかし、ウシもまた愛していた。殺すことなどできなかった。何もできずに時がすぎていく。今一度母を見ると、顔は血色が悪くやせ細り、まぶたは垂れ下がり、そして手は震えている。彼の胸は痛んだ。そして決めた。年老いた母を病気から救うために、まさに今夜、2頭のウシうちの1頭を殺そうと。

ランプに灯りをともし、大きなナイフを手に部屋を出て、家畜小屋に向かった。少しの時間、彼は小屋の戸の前に佇んだ。ウシたちは牛舎で一心に反芻している。どちらにしよう‥‥‥。結局彼は心を鬼にして、より近くにいる方のウシを外へと連れ出した。残ったウシは仲間の後を追って出てこようとしたが、息子は小屋の戸を外側から閉めた。そして連れ出した方のウシを家の敷地から外へと誘導した。

ウシは、いつもの自分の仕事をするのかと思い、畑の方に向かって大きな歩を踏み出した。息子はウシの首に手をまわし、それを、止めた。ウシは戻って主人の顔を見る。息子は膝を折り、両手でウシの大きな首と目をなでた。そうしてから近所の家の戸をたたいて人を呼んだ。男たちが外に出て来た。

若い息子は、彼らに一部始終を話し、ナイフをその中の一人に渡すと、ウシを屠殺してくれるよう頼んだ。男たちが集まる。縄をウシの手足に結んだ。ヤー・アリーと声をかけ、縄を引く。ウシの重たい体が地面 に倒れた。ナイフを持っていた男がウシの胸に座る。若い息子は、ウシが殺されることに耐えられず、うつむき、涙をぬ ぐった。1分後には全てが終わっており、近所の男たちが急いでウシの皮を剥いでいた。」

ここで読者は映画「牛」の気分を再び思い出す。
ウシが死ぬ、という雰囲気。
表現される息子の悲しみは、蘇る映画「牛」の記憶によってさらに鮮明になる。
ウシというものが身近でない読者であっても、その死が若い息子にどのように影響しているかをより切実に理解できるのである。
そしてこの悲しみは、このような代償を払ってもなお、母をくびきにつながなければならなくなるという、彼らをとりまく状況の厳しさを一層際立たせるが、この厳しさとそれに静かに立ち向かう二人の痛いほどの強さが示されることによって、後半の怠惰なウシや知事の娘に対する態度が、より説得力あるものとして読者に迫ってくるのである。

あまりにも印象的なウシの表紙。その裏には、この表紙が与える衝撃によって、作者が表現しようとする物語の世界をより深く読者に届けようとする画家とデザイナーの意図が隠れていたのである。

 

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